男の言葉が、白川のせせらぎに冷たく溶けていく。「婚約者……?」創太の口から、無意識にその言葉が漏れた。
目の前に立つ男――啓介と名乗ったその男は、仕立てのいいサマーウールのスーツを着こなし、いかにも都会の洗練されたエリートという雰囲気を醸し出していた。しかし、その整った顔立ちに浮かぶ表情は、驚きから徐々に執着を帯びた、歪んだ怒りへと変わっていく。 「芽衣、君が突然東京のマンションから姿を消して、もう三ヶ月だ。両親も、僕の家族も、どれだけ心配したと思っているんだ」 啓介は創太を無視するように、芽衣へと一歩踏み出す。 「いや……来ないで……」 芽衣は創太の背中に隠れるようにして、その体をいっそう小さく縮めた。彼女の指先が、創太のシャツの袖をちぎれんばかりに強く握りしめている。その震えが、創太の腕を通じて彼の心臓へと直接伝わってくるようだった。
「君、彼女が嫌がっている。手を離しなさい」 創太は一歩前に出て、啓介と芽衣の間に割って入った。啓介の視線が、初めて創太を明確に捉えた。その瞳には、あからさまな軽蔑と敵意が宿っていた。 「部外者は引っ込んでいろ。これは僕と、僕の婚約者の問題だ。君こそ、彼女にどんな嘘を吹き込まれて騙されているか知らないが、彼女はそんなに綺麗な人間じゃない」 「騙されている……?」 「そうだ。芽衣、もう十分だろう。こんな古い街で、泥沼の逃亡劇を続けるつもりか? 君が僕から何を奪って逃げたか、この男に話したのか?」 啓介の言葉に、芽衣の息が完全に止まった。 「違う……私は、奪ってなんて……!」 「なら、どうして警察が君を捜索している? 君が消えたあの日、僕のオフィスの金庫から消えた機密データと、一千万円相当の有価証券。それを持っていけるのは、僕の鍵を持っていた君しかいない」
冷たい衝撃が、創太の全身を駆け抜けた。警察、そして窃盗。頭が混乱する。隣で震える芽衣の顔は、幽霊のように真っ白だった。彼女はただ、首を横に振り続けることしかできない。 「創太さん、違うの……信じて、私は……」 その涙に濡れた瞳を見た瞬間、創太の迷いは消えた。今の彼女は、追いつめられた一匹の小動物のようだ。ここで彼女をこの男に引き渡せば、彼女の心は完全に壊れてしまう。
「……走って」創太は低く呟き、芽衣の手を強く握りしめた。 「え――」 「走るんだ!」
創太は芽衣の手を引き、石畳を蹴って走り出した。 「おい! 待ちやがれ!」 背後から啓介の怒号が響くが、振り返る余裕はなかった。白川沿いから、細い路地へと滑り込む。京都の街は、大通りを一歩外れれば、迷路のような路地が複雑に入り組んでいる。観光客の波を縫うようにして、二人はひたすら走った。紅殻格子(べんがらこうし)の続く町家、軒先の犬矢来、すべてが目まぐるしく後ろへと流れていく。
どれくらい走っただろうか。息が切れ、肺が焼けるように熱くなった頃、二人は静まり返った小さな神社の境内にたどり着いた。赤い鳥居の奥に、ひっそりと佇む社。周囲には誰の人影もなく、ただ風に揺れる竹林の葉擦れの音だけが響いていた。 「はぁ、はぁ……ここまで来れば、大丈夫……なはずです」 創太は膝に手を突き、荒い息を吐きながら言った。隣に立つ芽衣も、肩を激しく上下させていた。しかし、その表情からは先ほどの恐怖が完全に消えたわけではなかった。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」 芽衣はその場にへなへなと崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆った。彼女の細い肩が、せきを切ったように激しく震え出す。 「創太さんを、こんなことに巻き込むつもりじゃなかったんです。ただ、あの雨の日、優しくしてくれたあなたと過ごす時間が、あまりにも温かくて……。嘘の自分でいられる時間が、唯一の救いだったから……」
創太はゆっくりと彼女の前に屈み、その冷え切った両手を包み込むように握った。 「芽衣さん。俺に、本当のことを話してくれませんか。あの男が言っていたことは、本当なんですか?」
芽衣は涙に濡れた瞳を持ち上げ、創太をじっと見つめた。その瞳の奥には、深い絶望と、何かを決意したような光が混ざり合っていた。 「……私は、何も盗んでいません。あの人が言ったことは、全部、私を連れ戻すための嘘です。あの人は、自分の思い通りにならないものを、力ずくで壊そうとする人だから」 彼女の声は震えていたが、その言葉には確かな芯があった。 「私は、東京のIT企業で彼の秘書をしていました。そこで婚約を迫られ、断れなかった。でも、彼の異常な独占欲と暴力に耐えられなくなって……すべてを捨てて、この京都に逃げてきたんです。名前も、経歴も、全部偽って」
「そう、だったんですね……」 創太は胸のつかえが取れるのを感じた。彼女が犯罪者などではないと信じたかった。その直感は間違っていなかったのだ。 「でも、それなら、どうして警察が……?」
創太の問いに、芽衣は一瞬、言葉を詰まらせた。そして、唇を噛み締めながら、さらに恐ろしい事実を口にした。 「……警察が動いているのは、本当です。でも、それは窃盗の件じゃありません。彼が、私の家族を脅して、行方不明者届を出させたんです。そして……」 芽衣は周囲を警戒するように見回し、さらに声を潜めた。 「創太さん、信じられないかもしれないけれど……あの人は、ただのビジネスマンじゃないんです。彼の父親は、政財界に太いパイプを持つ、裏の顔もある人物で。もし私が捕まったら、今度こそ私は、人として消される……」
彼女の言葉が、風に乗って消えていく。京都の美しい夕暮れが、急に不気味な血の色に見えてきた。 その時、創太のスマートフォンが、ポケットの中で不意に震えた。画面を見ると、登録のない番号からの着信だった。嫌な予感が胸をよぎる。創太が躊躇いながらも通話ボタンを押し、耳に当てると――。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、先ほどの啓介の、低く冷酷な笑みを含んだ声だった。 「見つけたぞ、長谷川創太くん。君の実家の住所も、勤務先のデザイン事務所も、すべて調べさせてもらった。これ以上彼女を隠し立てするなら、君の大切なものがどうなるか、よく考えた方がいい」
創太の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。なぜ、自分の名前を――。 静かに、しかし確実に、破滅の足音が二人のすぐ後ろまで迫っていた。