あの嵐のような夜から数週間、京都の街は嘘のように穏やかな五月晴れに包まれていた。
創太は、四条烏丸にある小さなデザイン事務所のデスクで、Macの画面に向き合いながらも、手元のスマートフォンを何度も見つめていた。画面に表示されているのは、あの日交換した「芽衣」という名前と、新緑を思わせる緑色のアイコン。
「次は、晴れた日に」
別れ際に交わした約束が、頭の中で何度もリフレインする。宇宙飛行士という大嘘をついていた自分が、ただの「冴えないデザイナー」だと打ち明けたとき、彼女は笑ってくれた。あの温かい笑顔が、創太の胸から離れなかった。 (本当に、俺のような男で良かったんだろうか)
自分のデザインしたパンフレットの校正をしながら、創太は小さくため息をついた。普段なら集中できるはずの作業が、今日ばかりは遅々として進まない。窓の外を見上げれば、雲一つない青空が広がっている。京都の初夏の日差しは、鴨川の水面をキラキラと黄金色に染めていることだろう。 「よし……」 意を決して、創太はメッセージを入力した。
『芽衣さん、こんにちは。今週末はとてもいい天気になるみたいです。もしよければ、この前の約束、果たしませんか?』
送信ボタンを押した途端、心臓がトクンと跳ねた。返信を待つ時間は、まるでデザインのコンペ結果を待つときよりも緊張した。数分後、スマートフォンが小刻みに震えた。
『創太さん、お誘い嬉しいです。ぜひ、お会いしたいです』
画面を見つめたまま、創太は思わず小さくガッツポーズをした。
日曜日。待ち合わせ場所は、三条大橋のたもと。かつて雨の中で出会った二人が、今度は眩しい太陽の光の下で対峙していた。 「創太さん!」 鴨川を渡る薫風に吹かれ、人混みの中から現れた芽衣は、あの夜の濡れたトレンチコート姿とは見違えるようだった。柔らかなシフォン素材の白いワンピースを身にまとい、風に揺れる裾と、陽の光を浴びて茶色く透き通る髪が、言葉を失うほどに美しかった。 「あ、芽衣さん。こんにちは。……すごく、似合ってます、その服」 思わず本音がこぼれてしまい、創太は慌てて口元を押さえた。芽衣は少し頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとうございます。晴れた日に創太さんに会うから、少しお洒落してきたんです」 嘘のない、ありのままの彼女の言葉が、創太の胸を温かく満たしていく。
二人は鴨川沿いをゆっくりと歩き始めた。川原では等間隔に座るカップルや、水遊びをする子供たちの声が響いている。あの日、激しい雨の中で手を握り合ったことなど、まるで夢だったかのように、世界は穏やかで満ち足りていた。 「この近くに、古い町家を改装したお気に入りのカフェがあるんです。そこへ行きませんか?」 創太の提案に、芽衣は「ぜひ」と目を輝かせた。祇園白川の喧騒を避けた路地裏。新緑の青もみじが初夏の光を透かして揺れる古い町家カフェで、冷たい抹茶ラテを挟み、二人はぽつりぽつりと「本当の自分」を差し出し合った。
「私は、東京の小さな出版社で編集アシスタントをしていたんです」 芽衣は静かに語り出した。 「毎日が忙しくて、自分の時間なんてなくて。そんな時に、大好きだった人から……突然、別れを告げられたんです。理由も教えてもらえないまま。それで、心が壊れちゃって。逃げるように、彼との思い出がないこの京都に来たんです」 彼女の瞳に、かすかな陰りが差す。しかし、あの雨の夜のような深い絶望はそこにはなかった。 「実を言うと、創太さんに出会えて、あの雨の中で『新しい季節を始めよう』って言ってもらえて、本当に救われたんです。あ、ちなみに、創太さんのデザインしたお仕事、ネットで検索しちゃいました」 「えっ!? 本当に?」 創太は思わず声を裏返した。 「はい。地方の小さなお菓子屋さんのロゴや、温かみのある装丁デザイン。どれも優しくて、温かくて……。宇宙飛行士じゃなくても、私にとっては、誰よりも輝いて見えました」
芽衣の真っ直ぐな言葉に、創太の胸の奥が熱くなる。 「ありがとう、芽衣さん。俺、自分の仕事にそこまで自信が持てなくて……。でも、そう言ってもらえると、デザイナーを続けてきて本当に良かったって思えます」 二人の間に、心地よい沈黙が流れた。嘘の鎧を脱ぎ捨てた二人の距離は、雨の夜よりも確実に縮まっていた。
カフェを出た二人は、白川沿いの柳並木の下を歩いていた。木漏れ日が石畳に美しい模様を描き、さらさらと流れる川の音が心地よい。 「今日は本当に楽しかったです。京都に来てから、一番笑った気がします」 芽衣が創太の顔を見上げて、眩しそうに目を細めた。 「俺もです。また、次の週末も……」
創太が次の約束を口にしようとした、その時だった。前方から歩いてきた、スーツ姿の男の足が不自然に止まった。男は驚愕の表情で芽衣を見つめ、やがてその唇から、信じられないといった様子で名前がこぼれ落ちた。 「……芽衣? なんで、ここに……」
その声を聞いた瞬間、芽衣の身体が目に見えて凍りついた。彼女の顔から血の気が引き、その瞳に、あの雨の夜以上の深い怯えが浮かび上がる。 「嘘……どうして……」 芽衣は震える声で呟き、創太の袖をぎゅっと掴んだ。その手の冷たさは、あの日、雨の中で握りしめた時と同じだった。男は怪訝そうな視線を創太に向けた後、一歩、芽衣へと歩み寄った。 「ずっと探していたんだ。君が突然消えた理由、まだ聞いていない」
目の前の男は一体誰なのか。芽衣が京都へ逃げてくる原因となった、あの「過去」なのか。晴れ渡った京都の空の下、創太の胸に、冷たい疑惑と焦燥の嵐が再び吹き荒れようとしていた。